掲載日:2021.12.2

「日本の劇」戯曲賞2021 最終選考委員選評

『日本の劇』戯曲賞2021最終選考委員選評  

「日本の劇」戯曲賞2021(主催/文化庁・日本劇団協議会)の最終選考会が2021年10月1日、日本劇団協議会会議室にて行われ、次のとおりに決定しました。
最終選考委員の演出家は、板垣恭一、上村聡史、内藤裕敬、中屋敷法仁、宮田慶子の5氏(敬称略、五十音順)です。

              
【最優秀賞】  該当なし

           
なお、佳作として1作品を選出いたしました。

【佳作】 七坂 稲 『再生』


 今年度の応募総数は74作品。一次選考を経て最終候補作品として選出されたのは、次の7作品でした。

【最終候補作品】(受付番号順)

                   服部紘二 『水槽のないアクアリウム』
                   広島友好 『オトーサンの甥』
                   ごまのはえ『よりそう人』
                   岡田鉄兵 『蛍火(ほたるび)』
                   七坂稲  『再生』
                   高橋敏文 『さようなら、私だけのお姉さま』
                   マヤコジマ『東京の壁』
                 



                              
■【最終選考委員選評】■

人間と物語の関係 板垣恭一

 『再生』を推しました。死者が劇中に登場することは珍しくありませんが、複数の関係者それぞれの幻覚として登場する仕掛けが面白かったからです。ただひとりひとりがしっかり描かれているかというと疑問が残り佳作が妥当かと思いました。『蛍火(ほたるび)』は読んでいて会話は面白かったのですが、物語としては平凡で。あと主人公の年齢設定が70代というのはちょっと頭が痛かったです。70代の魅力的な俳優を集める困難さから考えますと、上演を前提にした戯曲賞にとっては正直マイナスポイントだと思いました。『オトーサンの甥』は「甥は誰なのか」という話が「わたしとは何なのか」という話に広がっていき、そこが面白いのですが、逆に言うとその説明以上の発見がないというところが弱点でした。『よりそう人』に思うことは、戦争を被害者意識で語ることはもういいんじゃないかということでした。また残留孤児の話が本筋に深く関わっておらず、単なる1つの”意味ありげな”エピソードとしかなっておらず、ならば不要という判断もあったのではないでしょうか。『さようなら、私だけのお姉さま』の揺るぎない世界観は良いと思うのですが、物語として感情移入できる入り口が見つからず。時系列を動かす方法を取る場合は、その意味まで計算するべきだという感想を持ちました。『東京の壁』は設定に全くリアリティを感じられませんでした。ベルリンの壁のようなものが東京にというアイディアは良いと思うのですが、なぜそうなったかについてもう少しちゃんと考えて下さらないとその設定の中に生きる人物たちが陳腐に見えてしまいます。『水槽のないアクアリウム』は主人公のことを他の登場人物みんなが大好きというところが微笑ましく、全体が底抜けに明るい感じは好きでしたが、そのハッピーぶりが物語としての意義を持ち得ていないと思いました。

 人間をどう見ているか、それが僕が戯曲を読むときの判断基準です。ファンタジーであろうがコメディであろうがシリアスであろうが「人間」が描かれていること。そこに物語が存在する意味があると思うからです。知識のひけらかし、お説教、安易なヒューマニズムなどはごめんです。ああ、人間てこうだよなー、と思わせていただけたら、それもできれば新しい視点で。なので僕は『再生』を推しました。例年より応募作品数が1.5倍に増えたそうです。皆さんの創造活動がますます盛んでありますことを祈っております。


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アイデアの次に表現すること
上村聡史


 今年の応募作は、土台となるアイデア、構成の面白さに目を見張る印象が全体にあった。しかし、読み進めていくと登場人物が紡ぐ台詞や心理、そして展開に深みを帯びる様子がなく、戯曲の半分を読んだところで、疲労を感じる作品が多かったとも言える。それぞれに着眼点が良かった分、少々残念である。なによりも劇場という空間で、俳優が自らの身体や声を音として発する台詞は、何よりも演劇の醍醐味であろう。その醍醐味のために心理や世界観の細部にまでこだわっていく筆力に今後は期待したい。とはいうものの、これはなかなか大変な作業であることは理解している。ただ、これは作者の熱意と同じくらいに作者の客観的な視点、批評性でもある。常にマクロな視点とミクロな視点を行き来して文芸という名の作劇に勤しんでもらえたら何よりである。
 佳作となった『再生』についていえば、主人公の亡くなった姉を幻想であり幽霊のような存在として、登場人物たちに影響を与え、かつその登場人物たちの揺れ動きを同時進行のように見せていく構成は、なかなかのものであった。しかし、主人公の恋人が現れ、物語が大きく動きだした以降に、引用を用いた台詞の印象が強くなってしまったのは、少々残念だ。この時こそ、作者の持論や引用を咀嚼してでも構わないから、作者の言葉として台詞を表現してほしかった。
 『水槽のないアクアリウム』は、古今東西さまざまな世界観を提示する“人魚”を持ち出したあたり、大変想像力を抱く切り口で、かつ人形像の頭を盗むという、見事な設えだ。しかし、登場人物皆の口調や、状況における会話の描写が雑で、ディティールの甘さが目立ってしまった。『オトーサンの甥』は不条理な設えを施しながらも、小気味のいい展開で、「失われた父性に、なおもすがる人々」という批評が効いている。しかし、この批評性こそを核に進めてもらいたかったが、人間関係の謎の解答にシーンを費やし、切れ味を鈍くしてしまったのが残念であった。『蛍火(ほたるび)』は、高齢のベテラン漫才という、実際の上演で、この年齢の俳優を配することを考えたらこの上もない面白さを持った作品だ。しかし、展開がやや古めかしく、七十年もの人生を生き抜いたからこそ感じる奥行を書き込んでほしかった。『さようなら、私だけのお姉さま』は、とある特殊な女子高校生たちという共同体を設えるだけで、ここまでの文体を確立できるものかと驚嘆した。しかし、物語の行く先を捉えるのが難しく、疲弊感を感じる作品でもあった。『東京の壁』は、わかりやすいアイデアを提示しているものの、登場人物皆がいい人で、語られる言葉が道徳的過ぎる。劇場は、学校の教室でないことを改めて提言したいと思う。『よりそう人』は、魅力的な舞台設定や登場人物を拵え奥深いドラマが期待できる要素がありつつも、その設定と本筋が説得力とリアリティを持って展開しているように感じなかった。



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内藤裕敬(南河内万歳一座)


 まずは、昨今の演劇及び戯曲に思うことを書いておきます。2.5次元と呼ばれる作品をはじめ、演劇作品が映像作品にスリ寄って行くなぁと感じています。その取り組みは、今のところ演劇の本質的な方向から外れていると思え、それ等を演劇のサブジャンルと考えるのが妥当でしょう。舞台で生身の生き物が、生き物としての表現を発表するのが演劇です。戯曲も、その本質的な取り組みの上に書かれるべきでしょう。

『水槽のないアクアリウム』
 面白い展開の物語を発想しようという意気込みを買う。しかし、表層のストーリーに重心を置きすぎて、一つ一つのエピソードにリアリティが薄くなってしまったのが残念。
『オトーサンの甥』
 スリリングな仕掛けに期待できた。その割にドラマへの踏み込みが浅く、仕掛けが生きていない。登場人物の言葉を、もっと開発しなければならないと思う。
『さようなら、私だけのお姉さま』
 独特の静かな世界観だが、私は、それに魅了されなかった。美意識が、別冊少女フレンドの長編読み切りマンガに勝てない。あなたは、もっとキョーレツな何かを持っていらっしゃるのじゃないかしら?
『東京の壁』
 作者の考えや言葉を登場人物が代弁して物語が進行している。人物が立体的に見えてこない。作者に都合の良い人物たちが物語を都合よく運んでいる。もっと壊して良いのでは。
『蛍火(ほたるび)』
 面白く書けています。上演すればウケると思う。そのくらいの出来栄えです。しかし、新しさが無い。お笑い芸人に設定を変えた挫折と再起の物語という域を超えて欲しい。
『よりそう人』
 この人は、「腕がアル!」と思って読んだら、作者は、ごまのはえ氏だった(※選考終了後に公表)。なるほど、やるな。だからこそ不満を言う。舞鶴という土地。中国からの引き揚げ。その後の人生。この三つが中心で描いて欲しい。時代と人間模様を丁寧にやりすぎて、作家として描かねばならぬ主題の在処がボヤけちゃった。良くできてるのに惜しい。
『再生』
 自殺の真相という重いモチーフを踏ん張って良く書いている。しかし、ショーペンハウアーと哲学を持ち出した所で演劇の居場所を見失っている。死んだ姉の存在が面白いだけに残念ですよ。作品と作者の可能性に期待して佳作!!


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戯曲の中の「ドキュメント」の扱いについて
中屋敷法仁(柿喰う客)


 私が今回、最も注視した部分は、劇中におけるドキュメント(文書・記録物)の取り扱いである。台詞とト書きで構成される戯曲は当然、誰かに書かれた文字である。それを俳優たちが生身の言葉にし、スタッフやクリエイターが舞台上に空間を立ち上げる。そんな戯曲の中に「文字そのもの」として登場する言葉を、どのように扱っているのか。さまざまな情報発信ツールが氾濫する現代において、戯曲の中の言葉と劇作家との戦いを見届けた。
 『水槽のないアクアリウム』『東京の壁』は、現代の日本とは異なる時代・社会を描いた作品だ。その中にあって、テレビやラジオといったメディアから発せられる言葉(原稿)が、非常に稚拙に感じた。登場人物たちの物語とリンクしておらず、単なる風景にしかなっていない。特に『東京の壁』は、クライマックスである壁崩壊の描写が臨時ニュースという形で処理されてしまうことがもったいなく感じた。メディアを通して劇世界の奥行きを感じたかった。
 シンプルな劇構造から不条理劇の様相を呈する『オトーサンの甥』は、スリリングな会話が魅力的だった。その中に唐突に挿入される「独白」だが、残念ながら全体の緊張感を損ねている。登場人物たちの会話に比べると箸休めのように読めてしまった。
 人情味あふれる物語『蛍火(ほたるび)』は、素直に楽しめる人間ドラマだ。問題なのは、長年にわたり本音を語ることのなかった弟が、死の二日前に書いたとされる手紙である。手紙の存在が明かされてから、代読されるまでの展開があまりにもスムーズすぎる。手紙という物体への扱いも緩慢に感じた。手紙も一人の登場人物として丁寧に扱うべきだと思った。
 『さようなら、私だけのお姉さま』は、放送室からのアナウンス原稿により、状況を説明する手法は適切に機能していた。ただ、「むかしむかし〜」から始まる、書き物(読み物)の寓話は、劇世界の中と関係が意味深でわかりづらく、楽しむまでに至らなかった。
 残留孤児をめぐる『よりそう人』は時代や国を超える壮大なストーリーである。その内容を届けるという意味では「手紙」や「新聞記事(資料)」を読み上げることは非常に有効だろう。ただ、手紙の書き手である出演者が読み手となり、自分の思いを言葉で伝えていくというのはあまりにも短絡的だ。文字にすることのできなかった思い、また、記録に残らなかった歴史といったサブテキストの強度を感じさせてほしかった。
 ドキュメントの内容や存在感、そしてその取り扱いが卓越していたのは『再生』だ。亡くなった長女が残した日記が、遺族の心情を少しずつ暴いていく。その読み手も、舞台上に現れる姉(の幽霊)であったり、妹であったりと鮮やかに変化し、日記の「言葉」の取り扱いが実にドラマチックだった。また、小説や漫画、ドラマや映画に置き換えることのできない鮮やかな手触りを感じた。惜しいのは、他の場面で登場するショウペンハウエル「自殺について」の引用である。こちらは日記とは違い、挿入のされ方が強引に感じた。
 全体的に戯曲の水準は決して低くはなかった。しかし、最優秀賞に強く推薦するだけの強烈な個性には出会えなかった。


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 宮田慶子(青年座)
 
 選考する際には、「これはどうしても演劇でなければならないか」を考える。あるテーマについて自分の想いを発信しようとする時、それは映画なのか、演劇なのか、ドラマなのか、アニメなのか、短篇フィルムなのか、You Tubeなのか、はたまた小説なのか、詩なのか・・、今や選択肢はとても多い。どんなに題材や着眼点がよくても、発表方法の選択を間違えると、題材にも作者自身にも不幸な場合がある。ならば、演劇の特性は何か、演劇の戯曲として欲しいものは何かということになる。それは時間と空間のデザインだ。そしてもちろん、生身のライブということだ。限られた空間(劇場ということでなく戯曲が成立できる、演じられる空間という意味で)と一定の時間(現実に進行する時間)のためのホンかどうかということである。そして、確かな意図を持って有効な構成ができているかということだ。

 『水槽のないアクアリウム』は、それぞれの要素(泥棒・絵描き・コンクール・人魚像などなど・・・)の描かれ方が未消化で、ドラマが立ち上がらないまま経過していく。各人物像の個性が捉えにくい。エンターテイメントになりきれない。
 『オトーサンの甥』は得体の知れない第三者の登場から次第に追い詰められていく直線構成とミニマムな会話が、演劇の時間の濃度を生み出している。夫の抱える闇と妻の内面との齟齬がはっきりすると、妻の父の死が有効につながるかも知れない。
 『よりそう人』は、題材に向き合う距離感とそれに基づく構成の工夫が欲しかった。「中国残留孤児」問題でなくそれを抱えた女性たちの人生を描きたかったのだと思うが、題材に引っ張られすぎた感がある。「舞鶴」という土地をもっと感じたい。
 『蛍火(ほたるび)』は、年老いて尚、確執が続く漫才師兄弟という設定が全てで、会話の面白さは秀逸である。実際に実年齢に近い俳優諸氏で上演できたら楽しい舞台になると思える。終景の蛍は、情緒的な収め方になると弱い。
 『再生』は、三家族がパラレルで進行することや、「日記」という要素の使い方が優れている。電車の運転手の視点はもどかしいほど辛い。複雑な家族間の泥沼のリアリティがある。それを「再生」に導く泰助のニュートラルさが良い。密度の高い演劇の空間と時間を作り出している。
 『さようなら、私だけのお姉さま』は、女学園という設定自体が既に仮想世界であり、硬く様式的な台詞と、独善的な設定が続き、劇作としての柱が掴めない。演劇という手法には向かないかもしれない。
 『東京の壁』は、そもそも「壁がなぜできたのか」わからない。「壁によって分断させられた」という受け身の論理は情緒でしかない。ベルリンの壁や、南北境界線をどう捉えて、踏まえているのか、疑問が膨らんだ。フィクションを支える強さが欲しい。

 新しい作品はワクワクする。足腰の強靭な劇作を心から待っている。



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文化庁委託事業「令和3年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」
日本の演劇人を育てるプロジェクト 制作:公益社団法人日本劇団協議会